構成について


本年1月以来更新を休んでおりました。
ヤマギシ会については、まだまだ書きたいこともありますが、集団論の全体構成がまとまらず、
エッセイのように書き連ねても仕方がないと思っておりました。
そもそも私が集団論を書きたいと思ったのは、人間は集団を離れては生きてはゆけないが、
その集団に肉体的であれ精神的であれ殺されてしまう場合すらある。
その中で、人間が幸せに暮らせる集団とはどんなものか、
それぞれがそれぞれの役割に応じて働いていける集団とはどんなものかを探求したいという思いからです。
それは理想の集団を作りたいという思いではなく、
よりよき社会をつくるための一つの参考資料として提示したいという思いです。
また、回を改めて構成を発表していきます。
その間、落ち着くまでは現在進行中である有志の会の組織についての活動報告、考察などを発表していきたいと考えています。

廃校利用を考える有志の会発足

5月下旬より、2008年度をもって廃校となった大山小学校の利用を考える会が発足した。
まずは、6月初旬に地元のPTA、消防団などが中心となり、旧大山小の草刈を行った。
従来はPTAのみでやっていた奉仕作業なので、団体の枠を超えた活動となった。
新聞にも掲載された。房日新聞サイトリンクhttp://www.bonichi.com/News/item.htm?iid=2853


有志の会は、現在12名で構成されている。
諸団体の代表が集まっているのではなく、自発的に集まった集団である。
地域活動というのは、長い歴史を持った組織がそれぞれ活動するのが一般なのだが、
みんなみの里http://www.minnami.com/大山千枚田保存会http://www.senmaida.com/につづいて久々の自発的な組織である。


その心にあるのは、「地域の核としてコミュニティを再生したい」という思いだ。
小学校は、常に地域住民が集まるよりどころとしての存在であった。
統廃合は、時勢の流れとしてやむを得ないところもあるが、地域の核は時勢の流れで消滅させてはならない。


現在準備している夏休みのプール開放は、廃校利用を考える上での一里塚となるだろう。
私は有志の会の事務局に就任したので、今までやってきたことをフルに活用して、意義ある活動を深めたいと思っている。

愛和館でご飯を食べる

のっけからこの言葉の意味を知らない人には恐縮ですが(ほとんどか)。ヤマギシ会では、食堂のことを愛和館(あいわかん)という。確か言葉の意味があったのだけど忘れてしまった。ヤマギシ会は、今はどうだかわからないが当時は、一日二食で過ごすことになっていた。午前11時くらいに食べる食事を「第2食」、午後6時くらいに食べる食事を「第1食」と呼ぶ。夜の食事がメイン!といったニュアンスなのだろうか。
村人(学園生以外の大人)と学園生(当時の私たち)の食堂は場所が違って、私たちは400人(この辺の数字があいまいで、とても広かったような気がする)入れるくらいの食堂でご飯を食べたのだ。1つのテーブルに10人座れるようになっていて、「10人1テーブル」と呼ばれ、その10人は男女各5人ずつ、メンバーは入れ替わりで座れるようになっていた(固定制の時もあった)。この10人が食事の席でそれぞれの役割を果たすことになっていた。テーブルには3つ穴があいていて、真ん中にはおひつ、左右はガスコンロや、鍋を置くようなスペースになっていた。料理は、食堂のメインカウンターに大きなバットに入れて並べられており、そこから大皿に移して各テーブルに配置するようになっていた。素材は、ほとんどがヤマギシ会で生産されたもの。本当に、何でも作っていたのだ。牛乳、卵はもちろんとして鶏肉豚肉牛肉、納豆ヨーグルトがんも、カレーにラーメン、マヨネーズ、コロッケ、ハンバーグにウインナーもあり。きっと書いているだけで今回の文章が終わってしまうので、また思い出した時にでも書きます。
で、食事の話に戻る。
10人が各自の役割を果たす話だけど、基本的には男性だった私は食べるだけだった。たまに料理を取りに行ったりしたような記憶はあるのだけど。男女が互い違いに座り、料理を取ってあげたりもらったりというような感じ。ヤマギシ会には、「自分のことは自分でしません」という考えがある。「自分のことは自分でする」というのが一般だろうけど。つまり、誰かにやってもらうことで、我先に行動することを避けたり、他人の存在を意識するようにするという目的があったのかもしれない。で、やってもらうのが当たり前なので、そこに「ありがとう」という御礼は存在せず、「はい、どうぞ」「はい」といったようなやり取りがあるだけだ。ここらへんが独特ですね。
テーブルで調理をすることが多くて、お好み焼きを焼いたり、ラーメンをゆでたり、サバの味噌煮を仕上げたりすることも多かった。その調理はほとんどが女の子がしてくれた。どんな気持ちでしてくれていたのかわからないけど、学園ではそれがほぼ当然だったような気がする。ヤマギシの男は、「錬成」つまり鍛えてたくましい男になるべしといわれ、女は「幸せな娘、お母さんになる」といったような女性性を強調するような方針であった。だから、男はすごく楽だった。とにかくたくさん食べることが喜ばれたので、ラーメンなどは3杯くらい食べることが普通だった。そのおかげで、こちらに帰ってきて外食したとき「ラーメン一杯しか食べられないのか…」と変な感慨を抱いたものだった。
人間にとって食べることは一番重要なことなので、もう少し書いてみたい。今日は時間が無くなったので概要だけ。すみません。

ヤマギシの村とは?

ヤマギシの村とはどんなところなのか?ヤマギシ会本部の説明もあるにはあるhttp://www.koufukukai.com/gaiyou.htmlのだが、もっとざっくりいってみよう。
まず、ヤマギシ会には無所有という考えがある。ごくおおざっぱにいうと、すべての物はだれのものでもなく、したがって誰が使ってもよいのだが今は誰かの手元にあって使われている、といった考え。これをきいて、原始共産型社会だね、といった人がいたがその方面にまだ私が疎いのでその表現が適切かははっきりとはわからないが、字面的には似ているのかもしれない。
まぁ、簡単にいえば村の中で生活するのにお金がいらないということ。具体的には、衣食住すべてが無料なのだ。
お金がなければ、どうやって物を手に入れるのかというと、「提案」用紙というものに「長靴26?、1足ください」と提案すると、数日後それが「調整」されて、私の手元に届くというシステム。だから、服を選びたくても、基本的には誰かが私に合うものを選んできてくれるというわけで、デザインを選べるわけではない。で、その「調整係」は外の社会から物を仕入れてくるわけで、その時は経費などで購入するのだろうが、高等部男子のジーパンのメーカーは、当時EDWINや LEVI'S が流行っていたのにもかかわらず、ほとんど全員がGL HEARTというよくわからないメーカーのものだった。ウエストの部分にゴムが入っていたっけ。
衣服の場合は、ある程度提案すれば手に入ったのだが、マンガから小説などの本、音楽テープなど、高等部の秩序を乱すとされるものは正規のルートでは決して手に入らない。どんな社会にも裏ルートはあるもので、私などは年2回自宅に帰った時に本を買ってもらった(あのとき買ってもらった「マルコムX自伝」は今も大切に持っている)り、中学時代の友人にテープを作ってもらったりして隠して持って帰ったのだった。そのテープを交換したりして、ウォークマンもまた別の友人から借りたりして聞いていたのだった。だから、私の高等部時代は、ブルーハーツと、長渕剛ビートルズの”青盤”で過ぎたと言っても過言ではない。懐メロ特集を見ても、当時の3年間流行っていた音楽はほとんど知らないのだ。
と、どうでもよい余談が過ぎたが、不平不満さえいわなければ結構何でもそろう、ある意味楽な社会でもあったのは事実である。しかし、モノが満たされたからと言って人の心は収まるわけではない。しかも、どこの社会もそうだがヤマギシ会の幹部はものすごくたくさんの洋服を部屋に持っているとかいう真偽不明のうわさもあったりと、表に出ないところでいろいろ不満は言っていたのだった…。
そうそう、ヤマギシの村の別名は、当時「カネの要らない仲良い楽しい村」と呼ばれていた。もっとも、私の場合は親が”外の社会”にいたから高等部の学費を月額○万円払っていたのであり、むろんのことカネが要らなかったわけではない。これをどう説明していたのかというと、印象的だったのは「おカネのいる世界からおカネの要らない世界に入ってくるのはおカネがいるんだよ」という説明。卑近な例で言えば、遊園地に入るためのパスポートを買っているようなものかね?

ヘルメットをかぶろうか。

ヤマギシ会とはどんな思想集団なの?と聞かれることがあるのだが、私には7歳からの足掛け11年ほどのヤマギシ会体験しかなく、18歳でヤマギシを離れて以来積極的に関わりを持たなかったのではっきりしたことは分からないのが事実。でも、その中で私が経験したこと、考えたことを振り返ってゆく中でおおまかな概要が明らかになるような気がしている。というわけで今日も一つのエピソードを書いておきたい。
高等部生は、免許もないので宿舎から職場、農場には自転車で移動する。乗車時にはヘルメット着用が義務づけられている。今でも田舎では自転車に乗るときにヘルメットをかぶっている中学生が多いが、当時でも都会ではほとんどヘルメットをかぶっている子どもはいなかった。
ちなみに私は高等部6期生なので、ヤマギシの村の子ども以外の一般の子どももたくさん入り始めた時代にさしかかっていた。ヤマギシに来る子どもは、ちょっと不良っぽかったり、引きこもりだったり、どこかに社会になじめないところを持っている人が多かったので、「ヘルメットをつけろ」と大人に言われても素直につけない事例があったのだろう。
ヤマギシの中等部(中学生に相当する)から入学したものは1組、私のように外から入学したものは2組とわけられた。私たち予科二組は一室に集められ、世話係(先生みたいなもの)を中心として輪になった。「輪になって座る」ミーティングのことを、「研鑽会」という。研鑽会の説明は追々するとして、この日は何があるのだろう、と思っていると、世話係のS氏はヘルメットを自分の前に置き、持っていた金槌でいきなりヘルメットをガンガン殴り始めた。大人の力でヘルメットを殴ると、だんだん壊れてくる。そりゃそうだ。
そうして、穴だらけになったヘルメットを前にS氏は、「どうだ、ヘルメットはこんなに壊れにくいんだ。お前らの頭を守るためのものだから、自転車に乗る時は絶対にかぶれ」と言ったのだった。
私は、あっけにとられてしまった。ヘルメットをかぶらせるためにここまでやるのか・・・別に金槌で壊さなくてもいいと思うのだが。
で、この通称「ヘルメット研(研鑽会を略してこういう)」の後、ヘルメットが一人一人に渡され、晴れて自転車に乗れるようになるのでした。
後年(私がヤマギシを離れた後のことだが)、高等部生の女の子がヘルメットをかぶらずに自転車に乗っていて、交通事故に遭い亡くなってしまう痛ましい事故があったのだが、私たちが現役のころはなんだかんだいっても大体がヘルメットをかぶっていたことを考えると、ヤマギシの規律も弛緩し始めていたんだなと思わずにはいられない。

高等部入学!

ヤマギシの高校に入学するにも、試験があった。ほとんどは合格するのだけど、筆記試験も面接試験もあった。何ぶん18年前のことなのではっきり憶えていないことばかりだけど。筆記試験は、英語、数学、社会だったかなぁ。問題は一般の高校とは違って、基本的なところから応用問題まで、さすが東大出身の村人が考えるだけのことはある問題だった。
面接での思い出がある。
「高等部に入ったら、その次は何をしたい?」
「はい、大学部に行きたいです。そして、社会づくり(注:ヤマギシ会の目指す社会をつくるという意味)」をやっていきたいです。」
「高等部は男女交際禁止だよ?」
「はい、わかっています。」
というやり取りだ。
高等部に入る段階で、ヤマギシの村人になって一生やっていきたいという思いを持っていた仲間たちが他にいたのかは分からないけど、私はとにかくヤマギシの村で生きていきたかったのだった。今考えてみても、根本のところでは変わっていないような気がする。ヤマギシ会自体は3年後にはなれてしまうんだけど、ヤマギシの考え方、やってきたことにはそんなに嫌な思いがないのだ。どこかで、ヤマギシ会に似たようなことをやりたい、と思っているのかもしれない。
それはともかくとして、男女交際禁止、というのは運営する側から見れば非常によく分かる問題だ。年頃の男女が、親元から離れて寮で暮らし、職場では決して一緒にならないように隔離していても、ヤマギシのイベントスタッフなどを一緒にやったり、10人1テーブルの食事(項を改めて説明する)で顔を合わせたりすれば、きっとなんとかなってしまう。もし何とかなってしまったら、運営側としては大変になってしまうだろうからだ。15歳の私は、3年後に自分がその問題に直面するとは夢にも思わずに、のほほんと「自分は平気だ」と思っていたのだった。
そうして、91年の4月にヤマギシズム学園高等部に入学した。

中学3年のとき


それは私が中3になる4月のことだった。中2の冬から生徒会長になっていた私に、母が春休みにヤマギシ会の生活体験「中学生楽園村」に参加しないかと言ったのだ。中1になる春以来ヤマギシ会のイベントに参加していなかったので、軽い気持ちで参加した。そこで出会ったのは、その春からヤマギシ会の高校、「ヤマギシズム学園高等部」に入学する人たちだった。軽い恥じらいを覚えながら言うのだが、彼らがすごく光って見えた。物事に思い切り取り組んでいるように見えて、あんな風になりたいな、と素直に思ったのだった。そこで出会った人たちとも友人になり、私はすぐに5月の「中学生楽園村」に参加したのだった。やることは農作業体験なのだが、トイレや部屋の掃除、食事準備などの作業をする中で、そのすべてが楽しく、明るかった。それからは、中3だけが参加できる「学生進路研鑽会」というセミナーに参加したりして、ヤマギシ会への興味はますます深まっていったのだった。ヤマギシ会に再会したことでギターを始めたり、同級生を招いて集会を開いたり、雨の日に学校へ長靴で行ったり(!)したのだった。長靴でいくのは、今なら平気だけど当時は人の目も気になり、生徒会長でもあったのでドキドキだったことは憶えている。今思えば、ちょっとした自己啓発セミナーみたいなもので、パフォーマンスにすぎないという思いもあるのだが、当時はかなり盛り上がっていた。
その時までは普通に進学塾に通い私立高校の受験を目指していたのに、いきなりヤマギシの高校(高校ではないのだけど)に行く!と言い出したので父親は当惑していた。学校を休んで中学生楽園村に参加したりと、生徒会長にあるまじき生活をしていたのでした。
(次回はいよいよヤマギシ会入りです)