ヤマギシ会に入るまで。

私がヤマギシ会に出会ったのは、1981年の5月である。三重県にあるヤマギシの村でなんでもタダ(無料)のお祭りがあった。ヤマギシ会は、「金のいらない仲良い楽しい村」というのをキャッチフレーズにしていたのだ。私がいきはじめたころは「春まつり」といっていたが、「タダの祭り」「散財まつり」などといっている時期もあった。(さっきウェブを見てみたら「ヤマギシズム春まつり」となっていた。また元に戻ってきたようだ。)
なにはともあれ、小学校1年生だった私は、バスか電車で近所の知り合いとそのお祭りに行った。後で母に聞いたのだが、帰ってきた時の私の顔が、本当に楽しそうだったらしい。それをみて、これは何?と思い、母は翌年、ヤマギシ会で開かれている「特別講習研鑽会=(略称)特講」なるものに参加したのだった。私も17歳で特講を受講したのだが、それはまたそのときに書くことがあるだろう。
母の特講受講にあわせて、私は子ども楽園村というものに参加した。当時は夏休みの2週間を利用して開かれており、ヤマギシの行っている農作業の手伝いをしたり、掃除をしたりなどもろもろの生活体験を行うイベントであった。開催目的はともかくとして、2週間ヤマギシの村で過ごしたことはとても楽しかったような記憶がある。鶏卵を集めたり、牛に敷くチップをつめたりなど、いわゆる農業体験であった。小学生のころは、こんな感じで毎年の夏にこの「子ども楽園村」に参加していたのだった。
それ以外の時期は、ごく普通に社会生活をしていたのだった。大きな転機は、1990年、私が中学校3年生になるときに訪れる。
(しばらく続きます)

集団論事始め

人が集まれば、あらゆるところに集団は発生し、そこに関係が生まれる。本論では、どのような集団が人間にとって幸福なのかを追求することが大きなテーマである。とはいっても、結論にいきなりたどりつけるわけでもないので、私にとって身近なもの、見たり聞いたりしたことを書きながらある一定の方向を定めてゆこうと思う。
私にとって意識した最初の集団は、ヤマギシ会である。ヤマギシ会ときいてピンと来る人も多いかもしれないが、簡単にいうと幅広く農業を行い、そこから得た生産物を販売し事業を継続する共同体である。山岸巳代蔵を創始者として始まり、現在では日本を始め世界各地に「実顕地」と称する拠点を設けている。
私は、1981年から1994年まで断続的にヤマギシ会のイベントに参加し、91年から94年まではヤマギシズム学園高等部に在籍し、その後ヤマギシ会を離れた。だから、私の書くヤマギシ会は、高校生に相当する3年間で体験し、考えたことが中心となる。
1995年に大学に入学してからは、FIWC関西委員会というワークキャンプを行う集団に参加していた。こちらは今もつながりを持っている。学生時代、この集団に出会えて仲間とともに韓国でワークキャンプを行えたことが、今の私の大きな部分を形成している。
そして、2004年に鴨川自然王国にやってきた。司法浪人をしていたため、アルバイトくらいでしか社会との接点を持っていなかった私にとって最初の社会経験となる。ここで様々な仕事を任せてもらうことで大きな学びを得ている。
論文の初めは、印象論が続くことになるかもしれないが、書き続けていきたい。

毎月新聞


毎月新聞

毎月新聞

という本がある。


当時、大阪は梅田のジュンク堂書店
並んでいたこの本の装丁が
いっぺんに気に入った。


普段何気なく過ごしている日常を
テーマごとに切り取って論じる。
たとえば、「じゃないですか禁止令」
というタイトルがある。


以下引用。


『「〜じゃないですか」といわれたら、
(言った本人がそこまで意識してなくても)
そのことを知ってて当然、という
ニュアンスまで生むことも多い。
つまり、誰かがその言葉を言った途端、
そのことが、既成の事実と化してしまう、
実に巧みな言い回しなのである。』


こんな風に考えることが好きだ。
言葉にうるさい、とかいろいろ言われるけど、
考えながら言葉をつむいでいくのもまた楽しいことだ。

毎日はいつも新しい。


中国の殷王朝を創始した湯王のものとされる言葉がある。
紀元前16世紀の湯王は、
『苟ニ(まことに)日ニ新タナリ、日々新タナリ、マタ日ニ新タナリ』という言葉を、
朝顔を洗う青銅の洗面台に刻ませていた。

この国のかたち 一 (文春文庫)

この国のかたち 一 (文春文庫)

この本で、この言葉を知った。


毎日が同じような繰り返し。
だけれども、ここから何かを生み出してゆこう。
そう考えながら日々暮らしている。